2014年06月20日

新たに始まる松ヶ岡のお茶の歴史の巻

GOGO左官店にようこそ!
みなさまご無沙汰しておりました~icon10。最近左官屋なのか何屋なのか質問されるほどいろんな事をしておりますが、春から夏にかけては、山形県鶴岡市羽黒町松ヶ岡地域の「130年前のリベンジ!目指せ最北限のお茶プロジェクト」(勝手に命名)に参加しており、お茶栽培で松ヶ岡を盛り上げようとまた勝手に意気込んでいます(笑)
Facebookでの広報や各新聞社さんからも記事にしていただいておりますが、正直地元の羽黒でも松ヶ岡にお茶畑があるという事がまだまだ浸透しておりませんface07
そこで!昨年私が松ヶ岡産業さんから依頼を受けて、さまざまな資料を調べ、松ヶ岡のお茶の歴史をダイジェストにまとめてみました。この内容はお茶作り体験に参加して頂いた方に資料として渡しておりましたが、多くの方に歴史を知っていただき、良かったら応援頂きたいので、このたび松ヶ岡産業さんより許可を頂いて公開致します。ちょっと長いですが、お付き合いくださいねkao18

それでは 「松ヶ岡お茶ものがたり」 のはじまり はじまり~kao4

私たちが飲んでいる日本茶は、鎌倉時代を契機にして栽培・生産地帯が徐々に北上し、江戸所代には津軽藩でもお茶の生産を本格的に着手するようになりました。また安政5年(1858)の鎖国の解禁により、生糸とお茶は日本の輸出産品の二大潮流となり、お茶に至っては明治8年(1875)に日本の全輸出量の32%をしめ、インド・セイロン紅茶に首位を譲り渡す大正9年(1920)まで、実に45年間その座に君臨しました。
 新たに始まる松ヶ岡のお茶の歴史の巻
松ヶ岡茶の葉の写真

                           
ことの始まりは、明治維新後の動乱期まで遡る・・・。       
戊辰戦争で敗戦した庄内藩は過酷な処罰を覚悟していたが、西郷隆盛の英断により賠償金70万両の献金で済み、藩主酒井忠篤も幽閉をとかれて、郷里庄内に帰郷することができました。さらには転封を免れ、藩は明治元年(1868年)に忠宝が相続し、明治2年に大泉藩と改称、同4年廃藩置県で大泉県、翌5年酒田県となりました。
そして、その恩に報いる事と「国産を盛大にし、衆力を一致して専ら報国の志を表せん」と壮大な意思を持ち、当時有望視されていた養蚕製糸事業の創業と、荒蕪地の開墾による桑園や茶畑の遠大な造成を計画したのであります。この計画の立案者で実行責任者となったのは、大泉藩の中老で、のちに酒田県の権参事となった菅実秀(すげ さねひで)でした。

明治4年に大規模な開墾と桑園造成の計画を構想。明治5年4月より赤川河原の開墾に着手し同年6月に竣工。つづいて開墾の核心となる松ヶ岡の原生林開墾に旧藩士ら2,941名が携わり、同7年までにおよそ311haを開墾し、桑苗625,293本を植え、3階建ての大蚕室10棟や製糸工場を建設し、本格的に養蚕事業に着手した。生糸に続く輸出品のお茶は、生糸と比較的農繁時期がずれることと、過重な労働をしないで済むことう利点を生かし栽培を計画。
茶の栽培は、桑の栽培と効率的に作業するために、桑畑の間作として進められ、宇治から良質の茶種300俵(約18,000㎏)を購入し、明治6年5月13日に茶の種蒔きが終了(「黒崎研堂日誌」より)。お茶の栽培と製造の指導は、菅実秀の奨めにより遠州駿河国八坂村(現静岡県掛川市)生まれの斎藤庄蔵が担当した。
明治8年には、庄蔵指導の下で最初の茶摘みと製茶が行われ、手塩にかけて作られたお茶は、深い温情を受けてきた西郷隆盛のもとへ、伊藤孝継(旧藩士)により届けられた。伊藤は西郷に持参してきたお茶の茶銘を付けてくれるよう懇請したところ、快く承諾して六つの茶銘(林月・水連・都山・敦本・原泉・白露)を与えた。この茶銘は、書幅に仕立てられ現存しております
ちなみに、これらの茶銘は明治4年に大規模開墾計画を願い出た大泉藩常備六小隊の小隊長であった 林源田太兵衛・水野郷右衛門・都築十蔵・本多源三郎・榊原十兵衛、白井為右衛門 の六名の名前から考案されたものでありました。
 新たに始まる松ヶ岡のお茶の歴史の巻
※現存する130年前のお茶の木。あまりの年月に在来種になってしまったそうです。


              
明治10年には茶製場(現 東北振興研修所付近)1棟が建設され、室内には24台の焙炉を据え付けて本格的に製造加工・仕上げに着手。しかし庄蔵など尽力指導したものの、良質な製品にほど遠く成績不振であった。
様々な手立てを講じたものの、同12年「気象条件として茶の栽培には北限で適地とはいえない。従って優良品の栽培は難しいが、せめて桑畑の間作とせず、茶専用の畑としたほうがよい。しかし生育には不適地であることから生産コストがかさみ、産地として生き残るのは至難であろう。」と評され、その後も色々と策を講じたが茶葉の収量も品質もよくならず、製茶を売ることも無いまま、とうとう翌13年失意のうちに廃止。わずか7年あまりの取り組みで終了してしまったのです。

・・・・・・130年ぶりに狭山茶で茶栽培の復興を目指す・・・・・・・
松ヶ岡開墾場に再び茶畑を造成しようとなったきっかけは、入間市博物館館長の黒澤一雄氏と開墾場総長を務める酒井忠久氏がシルク製品のイベントを通じて知己の間柄になったことから始まる。
酒井氏から、松ヶ岡開墾場と130年前にお茶導入した経緯と失敗に帰したことを伺った黒沢氏は、埼玉県農林総合研究センター茶業特産研究所(現 埼玉県農林総合研究センター茶業研究所)が、近年気候の温暖化に伴い、良い試験データが得にくくなっていることや、埼玉県産の優良特定品種が数多くあることから、試験研究の場所としても新潟県村上茶生産地(現在最北端の生産地)よりも北に位置する松ヶ岡が、これらの茶苗を移植して育成可能ではないかと考え、この件を酒井氏に伝えた所、「もう一度130年前に実現できなかった先祖の夢に挑戦してみたい」と快諾をうけて、ついに移植することになったのです。

現在は、東北振興研修所に隣接した土地2アールに、「さやまかおり・ほくめい・ゆめわかば」の苗木が定植され、栽培方法や越冬対策の指導を茶業研究所より指導をうけながら、松ヶ岡開墾場有志の方たちの手入れの元、育成が進んでおります。
結果が出るのはまだだいぶ先の事となりますが、松ヶ岡に東北農家研究所(現 東北振興研修所)を設立し、農村の人材育成に尽力した指導者であった菅原兵治いわく「一粒の種 一寸の苗 十年の百年の後 深く培ふ」のように、130年の眠りから覚め、苦難や試練を乗り越えて、再び松ヶ岡開墾場の地にお茶畑が広がることを願っております。

現在の茶畑の様子
新たに始まる松ヶ岡のお茶の歴史の巻



 ・・・もう一つのエピソード・・・
明治5年、お茶の指導者としてスカウトされて来鶴した石神徳重家の次男・庄蔵は、同6年七日町の斎藤家に入婿となり、上肴町に「遠州屋」の名で製茶と各種苗木の生産販売を起業。明治13年以降、松ヶ岡での茶製造からは撤退したものの、故郷の遠州から茶の仕入れは続けていたようでした。やがて遠州屋は植木・苗木屋として揺るぎない地位を築き、大正~昭和初期にはその名を聞かぬものが居ないほど鶴岡市中に聞こえた。そして昭和6年に至り、家業を菓子屋へと大転換し、今日に至っております。


皆様いかがでしたでしょうか?浪漫ですよね~icon14なんとかなってほしいなあと思い、応援している次第でございます。

そして、2014年夏、松ヶ岡茶葉を使った紅茶・烏龍茶作り体験を行います!
7月12日・13日の土日開催です。12日は13時より鶴岡市羽黒町松ヶ岡本陣にて、お茶摘み&お茶講座(参加料1000円)、13日は9時~16時まで、紅茶・烏龍茶作りを行います(参加料1500円茶葉のおみやげ付)。そして12日は先着5名様(女性限定)で、お茶摘み娘の衣装貸し出しいたします!茶摘み娘コスkya-
新たに始まる松ヶ岡のお茶の歴史の巻

興味のあるかたは、是非ぜひご参加ください!

申し込み・お問い合わせ先☆ 松ヶ岡産業株式会社
〒997-0158 鶴岡市羽黒町松ヶ岡字松ヶ岡29
TEL&FAX 0235-64-1331
E-mail sangyou@matsugaoka.net
イベント担当 清野 までご連絡下さい。  よろしくお願い致します!





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